2022年4月7日木曜日

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『君たちはしかし再び来い』というタイトルの本が出る。出た。わたしはいつも言葉を口にしたりこうして字にしたりする時、口にしたところで、字にしたところで、という思いがある。目の前に誰かがいて、猫でもいい、それと緊張もせず、音の交換をするようなときにはそんな風には考えないのだけど、少し構えたりするとそうなる。だからなるべく構えないで、音の、字においては交換というわけにはいかないけどそのつもりで、言葉を出すようにしている。それでも、何だかなあ、という思いは消えない。いっそのこと黙ってしまったらどうだろうとなるときもある。もう何もいわない、字にしない。しかし退屈してしまう。退屈してしまい言葉を出してしまう。すごく大きな、津波のような、地震でもいい、しかしたぶんもっと大きな、どうにもならない力にどこへかはわからないまま押し流されていて。それはもうどう抗ってもだめで、こうしているうちに肉体は少しずつ死んで、しまいに死ぬ。どうにもならない。どうしようもない。ただまだ死んではいない。ほとんど黙っていてもかまわない。黙って押し流される力に愕然として、死ぬまで。だけどそれでもわたしは迂闊だから、生きているし、退屈しては言葉を出す。構えず、鳴くように。しかし出しては、出してもなあ、と思い、しばらく黙る、を繰り返す。今回の本もそうして出来た。こうなればもう「絶対に黙らないぞ」とベケットが『名づけけえぬもの』で宣言したように宣言すればよいのにそうもハラは決まらない。小説に書きたいものは少なくともわたしにはどうしたところで言葉に置き換えられないということはわかっている。だから字になるもののどれも「それ」の芯には当たっていない。かすめているとしてもずいぶん遠い。全部読めばしかしそれでも薄らと立ち上がって来る、とも思えない。そのような、甘えのような、身悶えのような、ふり絞りのような、伝わるかなという下心と、伝わるって何だよという。そして何よりそのようなものが「本」という品物になり本屋に並ぶという、胃の痛くなるような、ありがとうございます、余計なことをするな、のせめぎ合い。いや感謝しています。早くさっさと死なねえかなと死のうともせず生きている間の、幸運。幸運ということにします。こういう「何がいいたいのかよくわからない」文が今の世の中で支持されるとはまったく思えないが、わたしから出る言葉はこうなのだ。まだこの肉は死んでいないという合図