2020年5月8日金曜日

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だいたいの医者は何だって念入りにいう、再発の恐れのあるものは再発することを前提でいう、それは薬を飲ませて金にするなんていうせこい考えというよりは「患者に死んでほしくない」という思いからに違いないとわたしは疑わない、疑わないがマには受けない、わたしの腸が破れたとき、またそうなるのがいやだから、とても痛いから、手術をしてくれた医者に「気をつけることはあるか」と聞いたら医者は「ない」といった、これは珍しい、「ストレスだとか食べものに気をつけろだとかいうところですがはっきりいって原因がわからないので」といった、わたしは大変正直なひとだと思ったしとても気がラクになった

わたしは入院しているとき、たばこは吸うなといわれるし火をつけて吸うたばこは咳がひどくなったのでやめて電子のたばこにしているのだけれど、それをよいことに、電子のたばこは煙が出ない、においも吸ったときだけするがすぐ消える、よくかくれて吸った、なぜかくれて吸うのか、怒られるからだ、怒られるのは嫌なのだ、そのことで死にかけたとして、あのときあんなものを吸うからだと言われれば「そうか」と聞く、そのことで誰かが死んで「お前のせいだ」と言われれば謝る、吸わなきゃよかったとは思うだろう、しかしなぜ吸ったりしたんだろうとは思わない、だって吸っちゃったんだもん、だいたいいうほど吸いたいわけでもない、何となく吸いたいだけだ、何となく、ただその何となくは「思う」のではなく行動に出る何となくだ、行動に出るというのは大したものだ、何となく力(りょく)が強いのだ、激怒するひともいるだろう、激怒されるのは嫌だからわたしは自身の孕む「何となく力」をかくそうとする、孕む、などと書けもしない漢字が使えるのはスマホで書くからだ、ばかだ、とも言える

わたしはよく怒られた、歳をとっていいことのひとつは人に怒られることがほぼなくなることだ、子どものときや若いときは年中怒られていてとても嫌だった、嫌だが理屈は理解した、ああなるほど、と怒るものの言わんとすることはわかった、ただわかっただけだ

今コロナで「出るな」と自粛をお願いされている中で、ちょっと旅行に行ったり、飲みに行ったり、実家に帰ったり、パチンコ屋へ出かけたりしてネットで叩かれているものらがいる、わたしだって耳にしたり目にしたときは「このばかものが」と思うのだからほとんどのひとは、というか当人以外はみんなそう思う、それでもどうしても怒れないというか、怒る側に気持ちよく立てないのは、自身のこっそりかくそうとする何となく力を自覚しているからで、正論で叱るわたし、と、パチンコ屋へ並んで叱られているわたし、を想像したときそれはもうあきらかに、具体を持ってありありと想像できるのは、叱られているわたしであり、わたしを知るものらにとってもそうだろう

まあまあいいじゃないの目くじら立てないで、などと水をさすつもりもない、ましてやまさかパチンコに対する熱意と情熱を語りたいわけでもない、何となくだからそのどちらでもないのだ、いちばん叱られるやつだ、はっきりとした考えがない、黙って来なくなるやつだ、すべてを自然消滅させていくやつだ、ひととしてどうかと言われるやつだ、そしてわたしの場合もうひとつタチが悪いのは、それでいい、と思っているということだ




2020年4月27日月曜日

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『眠れぬ日々』とタイトルをつけてここにあれこれ書いていたのはいつだろう、FICTIONをやりながら書いていた、小説をやるようになり、地震が来て津波が来て原発が爆発してがんで井上唯我(FICTION構成員)が死んで、劇をやらなくなり、二度の手術をし三度入院し、ほぼ十年、コロナが来て、蔓延し、見えてる以上に蔓延し、かかると死ぬぞ死んでいるぞとくに年寄り基礎疾患持ち、関係ないぞ各種年代、外に出るな家にいろ、「伏せ」と犬へのしつけのようなことをあちこちから命令ではなくお願いされ、帰りたくもない家で不機嫌な顔をするものが増えた


みなさまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか、ひとりものはひとり孤独にインスタントラーメンですか、ふだんほとんど顔を合わすことのない嫁や旦那と姑やがきとステーホームで顔つき合わせてうんざりですか、稼ぎが突然なくなり狼狽中ですか、はっぴょうのば、がなくなり泣き過ごす日々ですか


今日も空気がきれいだ色がきれいだ、小鳥たちは明らかにいつもより元気でインドでは街からはヒマラヤの山が見えているという


わたしはいつも小説を書いている今も書いていた、八百屋が毎日野菜を売るのと同じだ、八百屋がテレビを見ながら今日入荷した人参の出来の悪さを考えるように小説のことを考えている、いや違うな、八百屋は仕事だな、わたしの場合は結果的にそれを金で売るから仕事のように見えるが売らなくても(これも売ってない)書いているから趣味だな、劇と同じだ、どれだけできたか劇で借金、小説で返しているといっていい、まだ返している、お世話になります小説にはそんなに読んできていないのに親切にしていただいて、趣味、まあ趣味か、だとしたら依存的だ、身を滅ぼす勢いの趣味だ、博打打ちの博打、とにかくいつも小説のことを考えている、だいたいそれ以外に何を考えるというのだ、来月わたしは来年わたしは暮らせているのだろうか生きているのだろうかなどという来るか来ないかわからない「未来」と呼ばれるまやかしのことなど考えたことがない、と書くと「書き方かな」「すじかな」と素人は思うようだがそんなものは小説を考えているとはいわない、たとえば散歩をして、雨上がりだ、空は晴れているが遠くには大きな雲がある、道は濡れて水たまりが大きい、ちょっとした緑道などを歩くと濡れた葉が日に照らされてきらりと光る、猫が横切る、そのようなとき、それらが目玉に飛び込み耳に飛び込み肌に飛び込み中を揺らす、わあこれはなんだ、というようなことを考える、考えるというか常に「わあわあ」いうておる、というのが小説を考えるということで、ようするにあなたがとても暇なとき今みたいなときにしていること、くそのやくにもたたたない、とされていることを、日夜している


ご存知の通り頭にたまるのは言葉ではない、やりかけの塗り絵のような、忘れた思考や曇天に立つ電信柱や、あおむけになってこちらを見る猫の一瞬や、どこかで見た林の中を歩く赤い鹿や、海や、二度と会いたくないばかやらで、それらが不思議なやり方で言葉になろうと少なくともわたしの場合はする、しなくていいのになろうとする、どう言葉になるのか本人は知らない、知るはずがない、知らないうちに言葉というものを刷り込まれて中と連動させられたのだ、何がどうやって言葉になるのかを知らない、なり方を知らないから言葉にこうしてなるはしから当人は驚き戸惑う、しかしそのことに少しずつ慣れてきたのがキャリア、もしくは歳をとる、ということで、わたしはわたしからもう何が出てきてもたいして驚いたりはしないからつまらない、たまるそれがどう言葉になるのかの仕組みも知らず驚きもしなくなる、慣れとはつまらないものだ、十五か十六になるうちの猫もちょっとやそっとの相手の仕方じゃちらとも遊ぼうともしない、子猫のときはわたしがする貧乏ゆすりにすらつっかかってきたのに、こうしてたまに昔のおもちゃを触るようにしてかき回そうとするのは慣れから自分を突き飛ばし狼狽させてみたいからだともいえるが自分の顔面を人の顔面を殴るように脳震盪を起こすほどには殴れないものでもあるから、殴らせるための隙のひとつである


またね