だいたいの医者は何だって念入りにいう、再発の恐れのあるものは再発することを前提でいう、それは薬を飲ませて金にするなんていうせこい考えというよりは「患者に死んでほしくない」という思いからに違いないとわたしは疑わない、疑わないがマには受けない、わたしの腸が破れたとき、またそうなるのがいやだから、とても痛いから、手術をしてくれた医者に「気をつけることはあるか」と聞いたら医者は「ない」といった、これは珍しい、「ストレスだとか食べものに気をつけろだとかいうところですがはっきりいって原因がわからないので」といった、わたしは大変正直なひとだと思ったしとても気がラクになった
わたしは入院しているとき、たばこは吸うなといわれるし火をつけて吸うたばこは咳がひどくなったのでやめて電子のたばこにしているのだけれど、それをよいことに、電子のたばこは煙が出ない、においも吸ったときだけするがすぐ消える、よくかくれて吸った、なぜかくれて吸うのか、怒られるからだ、怒られるのは嫌なのだ、そのことで死にかけたとして、あのときあんなものを吸うからだと言われれば「そうか」と聞く、そのことで誰かが死んで「お前のせいだ」と言われれば謝る、吸わなきゃよかったとは思うだろう、しかしなぜ吸ったりしたんだろうとは思わない、だって吸っちゃったんだもん、だいたいいうほど吸いたいわけでもない、何となく吸いたいだけだ、何となく、ただその何となくは「思う」のではなく行動に出る何となくだ、行動に出るというのは大したものだ、何となく力(りょく)が強いのだ、激怒するひともいるだろう、激怒されるのは嫌だからわたしは自身の孕む「何となく力」をかくそうとする、孕む、などと書けもしない漢字が使えるのはスマホで書くからだ、ばかだ、とも言える
わたしはよく怒られた、歳をとっていいことのひとつは人に怒られることがほぼなくなることだ、子どものときや若いときは年中怒られていてとても嫌だった、嫌だが理屈は理解した、ああなるほど、と怒るものの言わんとすることはわかった、ただわかっただけだ
今コロナで「出るな」と自粛をお願いされている中で、ちょっと旅行に行ったり、飲みに行ったり、実家に帰ったり、パチンコ屋へ出かけたりしてネットで叩かれているものらがいる、わたしだって耳にしたり目にしたときは「このばかものが」と思うのだからほとんどのひとは、というか当人以外はみんなそう思う、それでもどうしても怒れないというか、怒る側に気持ちよく立てないのは、自身のこっそりかくそうとする何となく力を自覚しているからで、正論で叱るわたし、と、パチンコ屋へ並んで叱られているわたし、を想像したときそれはもうあきらかに、具体を持ってありありと想像できるのは、叱られているわたしであり、わたしを知るものらにとってもそうだろう
まあまあいいじゃないの目くじら立てないで、などと水をさすつもりもない、ましてやまさかパチンコに対する熱意と情熱を語りたいわけでもない、何となくだからそのどちらでもないのだ、いちばん叱られるやつだ、はっきりとした考えがない、黙って来なくなるやつだ、すべてを自然消滅させていくやつだ、ひととしてどうかと言われるやつだ、そしてわたしの場合もうひとつタチが悪いのは、それでいい、と思っているということだ